昭和48年04月18日 月次祭
只今、共励殿の飾り棚の上に、こんな大きな紫の花が、籠の花挿しに一輪さしてあります。御大祭の時からさしてあります。花の名も知りませんけれども、只今あの何という花じゃろうかと聞いたら、鉄線という花だそうです。もう実に見事な花です、皆さんいっぺん御覧なさいませ。もうこんなに大きな花である。それにま見事に入れてある。飾り棚のこの端にこう、ところが、ちょっとこの辺の所に置き換えてある。
成程花は素晴らしいですけれども、その置き場が一寸か二寸こちらに置いてあるだけで、格好悪くなる。この素晴らしい花の値打ちまで、なくなる様な感じです。どんなに素晴らしい値打ちのある花であっても、その花を生かす事な、まあお花で言うならば、それを活けあげる事。しかも上手に活けあげる事。しかもその花の置き場である。ただこれだけのところに置いてある花が、真ん中に置いてもいけん、ちょっとこっち置いても、丁度ちょっとこう決まる処がある。花の置く場所、そこに決まった場がある。
それでその場を得て、しかもそれがよく入れてあって、しかもそれが良い花であって、いよいよ値打ちがあると言う事になるのです。信心も矢張りそうです。いかに金光様の信心が、世界の名教だというてもです、それを頂く者の信心、頂き方によって、いよいよ値打ちも表れます、また値打ちあるものを頂く事もでけるのです。折角信心をさせて頂くのですから、一つ値打ちのある信心をさせて頂こうじゃないですか。
お道の信心を分かれば、分からして頂く程、なるほど世界の名教というにふさわしい、宗教だと私は信じます。それこそお釈迦様でもキリスト様でも、言わば教祖生神金光大神の、脇役を務めになられる時代が必ず来る。世界の生神金光大神という時代が必ず来る、と言う事を私は信じさして貰います。という程に有り難い信心なんです。ならそう言う信心をです、お互いが頂いておりましても、その頂き方でです、それを値打ちのないものにしてしまうのです。
ですから値打ちあるもの、同時に頂くおかげも値打ちあるおかげを頂かなければ、なりません。いよいよ値打ちあるものを値打ちある、たらしめる為に、お互い信心の稽古をさして頂くのです。この御大祭に、琴が六面、見事な琴がお供えに来とります。今までの琴には、赤のゆたんが掛っとりました。赤の布でね。こんどんには、紫のゆたんが掛っとります。今お祭りを拝まして貰ながら、今その新しい六面んの琴を使うての今晩の奏楽でしたが、向うの方に立て掛てある処の赤のゆたんの掛った琴が。
そすとこちらで弾ております、その紫のゆたんの掛った琴を今日使用しておる。それが仕切に私の心に何かをこう、教えて下さろうとする感じがするんです。そんな思いで今下がらせて頂きましたら、今言う鉄線の花が仕切に又目に付く。して先程まで気が付かなかったけれども、あぁあれではおかしいなとその、花の置いてある位置がおかしい事に気が付いて、まあ改て直さして頂いたんですけれども、素晴らしいその花、素晴らしいその活け方、素晴らしい場を得ておると言う所にです。
鉄線の言うならばその花のいよいよ値打ちを、値打ちたらしめる事になった訳です。紫といえばここでは安心と言われております。安心のおおみかげ、私はもう二十数年前に、椛目の時代です。ある心配になる問題を、お届けがあったんです。そしたら、紫の色を頂いた。どう云う事、その時分は紫の色が安心だなんていう、それ以来、紫の色を頂くと安心だとここでは言っておる訳です。
次にナスを頂いた。なすび、次に歌舞伎十八番のあの助六というのがありますね。蛇の目の傘を持って、あの花道の七三の所で、こう決まってるあの、助六男伊達というのがあります。あの人がしておるのが、左鉢巻の紫の左ねじ巻きですか、の紫の鉢巻をしとります。それを次々こうやって頂いていくうちに、ははぁこれは安心だなと思うた。その心配の事柄を以来安心、紫のものを頂いたり紫の色を頂くと、例えばそれは心配な事であっても心配ではない、安心だと言っております。
ナスというのは言うならば、いわゆるですねへたとも言うしイガイガがあります。このイガイガを越えてなると言う訳ですね。成就すると言う事。どういうイガイガの問題があっても必ずなるんだと、成就するんだと言う意味なんです。それから助六のこの鉢巻は、蛇の目の傘を持っておる、助六がこうやってだから降ってもぬれない、と言う訳なんです。安心だとと言う様にです安心の、まあおかげを頂かれるお知らせです。
今まで、琴のゆたんに、赤のゆたんが掛っておった。赤と言うのはここでは熱情、信心の言わばその熱情をかけるとこう、もう一生懸命の信心修行が出来よらないとです、不思議に、どの様な心配があっても、どの様な難儀な問題を抱えておりましてもです、ほんとの信心修行が一生懸命でけておる時には、心が安らいでおりますね。こりゃ不思議です。一生懸命にお縋りをしておる、一生懸命に信心をしておる、時には不思議に自分の心の中に安らぎが生まれる。
それはね、これ程これだけの、一心を持ってお縋りしておるのであるから、もう右になっても左になっても、もうあなた任せと言う心が出来るからだと思うです。あなた任せの心がでけると言う事は、だからそういう信心に熱情が掛った所から、任せられる所の信心が生まれてくると思うです。心配があるなら修行しなさい。それでも心配ならもちっと修行しなさいと言う事になる訳です。その安心がおかげをキャッチするのです。その安らぎの心がおかげの受けものなんです。
不思議ですどんなに心配があってもです、もうどんなに心配があっても、一生懸命の信心修行さして頂いておる時には、いわゆるままよと言う度胸がでけると、信心の。それが言わば安心です。又意外な方が、さまざまな難儀な問題をここに持ってまいりましてもです、お取次を頂くと、心が安らぐ。心が安心。先日からも、四、五日前の朝の御理解でしたかね、申し上げまつらくと頂いた。祝詞言葉です。ここで皆さんが、申し上げ、申し上げるわけです。
神様に聞いて頂く心配や悩みを、その申し上げまつらくと言うのがね、申し上げは申し上げまつらくという字は、末永の末という字に合楽の楽という字が書いてある。まつと読みますわね、末という字は末楽金光様の御信心を頂いて、まあいうなら一人前と言う時にはです、お取次を頂いたらどんな心配事であっても、安心がでけると言う所までいった時に、まあ金光様の信心言わば金光様の信心を頂いておる値打ちがそこにある訳です。どんなに難儀な問題であっても、お取次を頂いてね。
親先生にお聞き届けを頂かせてもろうて、親先生がはいはい、お願い致しますよと言われたら、もうそれで今までの心配はそこに置いて帰られるというだけの信心。そういう信心が、私は安心だと思う。また腹が決まると言う事。福岡の安東さんが、今日午後の奉仕のときに参って見えた。まあ数的にいうと、今までは六千あまりの仕事をなさっておられた。所が会社の方から今度八千の注文が出た。
所が今までの安東さんとこの機能から言うたら、それ以上は受けられない。引き受けては来たもののとてもでけないから、お父さんにそれを断りに行ってくれとこう言うとる。もう最近は私あの御理解を頂いて、いわゆる息子さんが勇次さんと言いますが、勇次を神様だと思いますと、勇次が言う事だからもうはいはいという気になって、もう親先生にお取次を頂いてした事じゃから、とも言わずに、向こうに断りに参りました。
所が向こうの方では、その丁度係りの方がおいでにならなかったから、その足でまたここへお参りをして来た。そいで私は申しました。例えば、医者に罹るという、ああそいじゃお願いしときますよと言う、はっお医者に行った所が、お医者が留守だった、又お医者がおられなかったと言うてお礼に出てくる。そこで腹を決めなければいけないんです。はぁこりゃ医者に掛らんでも良いんだなと。
ははぁ是は例えば、素直な心で、向こうの方へ断りに言ったけれども相手の方がおられなかったんだから、これは神様が六千よりも八千のおかげを下さろうとする働きだから、お取次を頂いてお願いをさしてもろうて、勇次一頑張り頑張ろうじゃないかと言う事になる腹が今日でけた。お取次を頂いて迷いが一つに決まってしまった。是が又、例えばどの様なそれが難儀な問題でありましてもです。
ここで腹が決まると言う事申し上げた、申し上げたからそこで腹が決まるとか、安心がでけたと言う所から、その安心の心がおかげをキヤッチするのだ。真に有難いという心の状態がおかげを頂く。もう是で右左はあなた任せになる、ここの安らいだ、言うなら何にもない心の状態がおかげを頂くんだと云う事になる。おかげをキャッチすることになる、そういう受け方がでけると云う事がです、金光様の御信心の値打ちと言うのは先ずこの辺の所から、頂けれる信心にならなきゃいけん。
先程東さんのお母さんがこの頃から体が大変悪かったて、神様に一生懸命、生神金光大神様親先生、親先生というて、一生懸命御祈念さして貰いよったら、有々とこの御結界に、親先生が奉仕しておる姿を見た。してこんな小さい、自動車のハンドルの様なものを持ってこう、御結界でこう、あの運転をしておられる所を御心眼に頂いた。おかげで安心がでけた。おかげで言わばさしもの苦しみも取れたと言うお届けであった。
例えばここでは、私の運転する車に乗せて貰ったんだから、もう是から飛び降りたりこれで自分の良い様に、じゃなくてもうここにお任せをすると言う事。いうなら親先生の運転を信用すると言う事なんです。これに乗っておってよしせんなら事故にあって、ひっくり返ってももうそれはさらさらいとわない、親先生の祈りの中にある事だという風に、頂く事が安心である。そういう頂き方がでける事をです、例えば申し上げまつらくと言う事はです、その申し上げるの申しというの頭の所をこうして消して下さる。
申すという字の上の方ば消したら、甲の上の甲になるでしょうが、申し上げだから甲の上と言う事になる。甲の上と言う事は私どん小学校のときにね、百点満点を取るとそれは甲の上を付けて下さる。甲の下もある、甲もある、乙、丙、丁と言う事なんです。そこで私どもが長年信心をさせて頂いておるけれども、私の信心は、果してどの点数のところんにきあるだろうかと言う事を、何時も思うてみなければいけないと。
果たして、親先生にお取次を頂いたら、ほんとに任せられるか、安心がでけるか、それで腹が決まるか、というところをです、私どもは見極めて行かなければいけないと思うんです。白紙になれると言う事が素晴らしい、いわゆるもう、任せられると言う事、もうはく右が良いの左がいいの、て心が、なくなっている。そういう心の頂けれるところまで、そこまでお取次ぎの働きて言うものを、信じられる様になると言う事が、金光様の御信心の値打ちである。
只あげん時にはこげなおかげも頂いた、こうと言う様なおかげではなくてです、お取次を頂いたら安心がでける腹が決まる、心が安らぐとであってこそ初めて、それは金光様の御信心を頂いておる値打ちというものがそこにある訳です。今日は四時の御祈念の時に、明日が久留米の佐田さんの所のおじいさんの五十日祭を、明日私が奉仕します。送り名が頂いてない。送り名というものは、亡くなったらすぐ頂くもんですけれども、ここの場合は、往々にしてそれがある。
本人に例えば御信心が無い時などは、無い様な場合は、例えば十日祭、二十日祭と御霊に力が付く様なお祭りが段々さられていくうちにね、五回のお祭りを仕えて行く内に、御霊の心も安らぎ、御霊の心も喜びが沸いてき、御霊としての、力も多少は頂く様になる。その時その時点で、お名前を頂く。送り名を頂くというのがです、所がもういよいよ明日ですからです、私はその事をふっとその事を心の中に思わせて頂いた。
そしたら白という字を頂いた。今日さっきの白、白木の白ですね。心が白になる赤でも無からなければ紫だけでもない。いわゆるこの白の心あなたに任せる心、その任せる心から信心の熱情、この白というのが、ほんとに真っ赤に染まってしまう。信心の熱情というものが、燃えて来る様になる。その向こうに安心の紫と言うのがあるのである。これは段階をいう段階を追うて、私の信心が色で言うなら、例えば白から赤から紫と言うように、変わっていかなければいけない。
次にその下に木という字を頂いた。木、きへんの木です。なおお願いさして頂きよったら、横の方へこうやって糸偏ですかね、を頂いた。どう云う事になりますか。白を書いて下に木を書いて、横に白の横にこう糸偏いくと、合楽の楽という字になるでしょうが、安らいだ、安心の御霊としての、段々おかげを頂いてきたと云う事なんです。その時点でお名前を送って下さる。
皆さんもご存知の方もあった、そうですね何ヶ月ぐらい休まれたでしょうか。随分長く半年ぐらいなった、もう亡くなられる前は一、二月というものは、もうそれこそ信心のあるものよりも素晴らしい、ま境地が開けておるとしか思われない様な」状態であった。まぁあれを普通では、恍惚の人と言うかもしれません。言うならば恍惚状態、その恍惚の状態で、例えばそのでたらめな事を言うのじゃなくて、も一つ一つが御教えである。一つ一つがお取次を頂くと、見事な神様の事を言うておられる。
なんか用をしよると、合楽にお参りするとか、と言う様な風である。言うならば、もう亡くなられる前に、この白の状態になっておられた。ほらもうあちらでも、久留米でも有名な仏教のこり塊のおうちである。親戚中、佐田の一家、一門が集まって、毎月偉いお坊さんを呼んで、お話を聞かれると言う、言うなら合楽で言うならば、信心の共励会を自分一門でやられると言う程しの、御信心家であった。
十何代と続いた佐田の、言うなら久留米の名門ね、それが金光様の信心を頂くようになって、これは精神を通して助かった、助からして貰わなければというので改式のおかげ所にまでなった。ほらもう仏壇なんか、中にゃあのお道具なんかはもう、骨董価値のある、もうそれこそ大変な金額のものであったそうですけれども、ご親戚にその粗末なご仏壇しか無かとこがあった所に、勿論あのただで、もろうて貰いなさった。そしてあの改式というおかげになっておる。
もちろん休んでおられるおじいさんは、言うならばそれこそ仏様でなからなければ助からん様な思いがだんだん、金光様の有り難さも分からしてもらい、休みついてからはいよいよ家内、子供達、嫁達、孫達に至るまでの信心の徳というか、おじいさんの心をさまざまな色から、もう純白なものにしてしもうていってしまった。その白の、状態でお国替えになった。そこでです、いわゆる御霊ながらも、言わば熱情をかけての信心修行が、五十日簡続けられた。
是からも又この白というに又はこの木にです、白木にです愈々その例えば子供の神様との繋がり、糸と言う事は繋がりと言う事、又はお婆ちゃんです、家内である所のお婆ちゃんの信心、子供達の信心というものが、両方にこの白木に共のうて行く所から、いよいよ安楽の御霊安らぎの御霊として、是からいよいよ、御霊の世界での、喜びを受けられる事がでける様に成って来るだろうと。
佐田保平と生前の名前をこう言うておった。その保平というのにやとはこの弥、弥平の弥ですかね、いや益々という時の弥、すという字は寿、もういや益々寿のおかげに成って行くという保平という字は、平たいという字が書いてあるけれども、これをひらと頂いた。比はひれいの比らは良という字比良、佐田弥寿比良とこう頂いた。佐田弥寿比良勿論やすというのは、愈々おかげになって行くという意味。比良というのは、この世にあった時代、あの世であった時代とのその比較の事である。
それが良になって行くと言う事である。それから尚お願いさせて頂きよったら、あの小さい俳優がおりますね白木稔ちゅうのがあれを頂いた。だから私はあの実るはどういうみのるか知らんけれども、実という字を頂いた。弥寿比良実彦之霊神という送り名であります。佐田弥寿比良実彦之霊神。実と言う事は、実ると言う事である。そういう信心の徳を受けさせて頂く状態を、白の状態に頂いておる。そこから熱情をかけられる、そこから白木に、遺族のものの信心が、送ってあげられる所から楽になる。
そういうおかげを頂いて行くと言う事がです、私どもの信心の上においても、矢張り一つの信心の過程であります。所が中々この白木になれないという、白木に成るまでが骨が折れるわけです。お互いは、白木と言う事はもう、白紙になるというでしょう、何もない時に。言うならあなたにお任せすると言う心の状態が、白の状態です。どんな場合であっても、親先生任せになるという所までがです、もう様々に倒れ転びしながら、自分の思いでもやって見る。
神様にもお願いして、おかげを頂いて、まあそう言うと子、色々色々通らせて頂いて、ぎりぎり決着は、あなたのおかげを頂かなければ、と言う所まで信心が進んで来る。もう自分というものを出さ無くなって来る。自分という色が無くなって来る。白という色の深さや陶の秋である。白という色程深いものはない。それを例えばそういう状態に先ずならせて頂く。為に赤が必要である。
一生懸命どんな心配があっても悩みがあっても、一生懸命の信心をさせて頂いておる内にです、その心配と言う事が難儀という問題が、難儀でなく、心配が心配で無くなって来るだけの、心の安らぎが頂けれる。その時点でおかげが頂かれる。という一つのシステムの様なものがあるんです。信心を進めて行く上には。ですから何時までも只お願いをしてから、神様から後押しをして貰うというだけの信心で言うならばです。
それこそ我心に神が御座るから、おかげになるのであって、この方の信心は天も地も昔から死んだ事なし、この方が祈るところ、天地の神と一心なりという一心のおかげになって来ない。神様と私共が一つになる。一体になるという信心を頂いて初めてお道の信心の値打ちというものが表れてくる。神様は神様、私は、私そうしてお願いはしよる、ばってん一つも一体にはなってない。任せていないもん、いわゆる私の我が出ておる。私が頑張らにゃ、である。
そう言うところもです、例えばたどらせて頂く事も有り難い、けれども是では、先程からの点数の点でいうならです、甲か乙か丙が丁か、と云う所をですね、分からせて頂いて、言うならば丙ならば、乙の、乙ならば、甲のおかげにならせて頂くという信心の姿勢、願いというものをそこに持たなければいかん。そしては少しは難しかっても、そこんところを任せる稽古をさせて頂いて、神様をいよいよ一体となれるところの信心になって行かなきゃならない。
金光様の御信心がどんなに有り難いというても、金光様の信心が世界の名教というても、それこそ鉄線花の様に素晴らしい花であっても、その花の入れ方一つで、その値打ちのある花も、値打ちなくなってしまう。そこを、その花を活けあげるという所に稽古が必要なんです。先生にも付かなければ分からない、そして見事にそれを活けあげれると言うのがです、どこんでも持って行ったから良いというのじゃない。その場を得なければいけん。所を得なければいけない。
ここのところにもです、段々言うならば、感覚をいうならば、研ぎ澄ましていくというおかげ。昨日も、どなたでしたでしょうか、もうこの部屋部屋をあの見て回られて、もう素晴らしい調度品が、素晴らしい具合に軸が掛けてあって、香炉が置いてあって、花が飾ってあって、あの見事だと言う事を、誰言うておられました。ですからならどういう素晴らしい部屋に軸が掛かっておってもです、香炉の置き方が一つ間違っておったら、その軸がおしまいになってしまう。
花の置き方がちょっと間違っておったら、もうその床の間全体所かその部屋のムードまでが変わってしまう。これは久富さんが、あの四季折々にこうやって軸を変えたり、置物変えたりなさるんですよ。してもうこの頃は、寸部違わぬように、言うなら私の感覚をもう、自分で体得されて、もうこの香炉はここに置くべきだ、この軸はこの高さに、花はここにおかにゃ、と言う様にです、それがでけられる様になったと云う事も、その言わば才能があったからではない。
それを矢張り私から喧しい口上を言われながら、矢張りそれを感覚を磨いて行く内に、何時の間にかそれが出来る様になられたのである。信心もそうです合楽の信心がどんなに例えば、有難いの素晴らしいのというてもです、それを頂いて生かしあげれるだけの信心、それが場を得時を得又は所をいさせめて頂くだけの信心を頂いた時に、金光様の信心の値打というものを感じる、又は合楽でご縁を頂いておる人の、特別の喜びというのものを感じる事が出来ると私は思うです。
金光様の御信心を頂いて、何というても信心を頂いておる値打ちというのはです、私共がお取次を頂いたら、もうその場で腹が決まる。今日も朝の御祈念に今日は参っておられませんでしたけども、朝の御祈念の後に、北野の堤さん達親子で参って来た。昨日はもうほんとに菊栄会の方やら総代さん方が、お悔やみに来て頂いて、もうほんとに有り難かったというて感動、もう大変感動してからお礼を言うておられた。
もう親先生、もうほんとに信心が無かなら死んだがましち、けれども信心頂いとるおかげでですね、もうほんとに嫁ごと話てから、こげんしてばっかりおられんけん、いっちょ明日から、いっちょ商売の方にいっちょ頑張ろうじゃんのちゆうちから、今日は出て来ました。これからの商売の方針を新に親先生に頂いて、そして親子で腹を決めようと思うて今日は時間を遅れて御参りして来たとこういうのである。
あの十三日の日に亡くなられて、十二日の日にはもう今まで、今わら工品というのがわらが無いから、注文は何ぼでもあるけども、全然出来ない訳なんです。それで佐賀当たりまでずうっと、今まで全然行ったこともなか所にまで、何軒も渡りを付けて、その交渉をして来てあった。前の日に、そいでそれをもう行こうか行くまいか、注文があっとるとはもう断って止めようかと言う事をです。
今日はご神意を頂いてと言う事であった。もう先生それから、もうあんそりゃあの最近の、堤さん所はもう大変な、その所通っておりました。沢山金を借ってあるとを、もう利上げが出けんごたある状態だった。だからこの頃波多野さんあの亡くなられる時にそこで、あのもう冷とうなっとるというておられる時です。あのお婆ちゃんが、あの清さんの耳元に、口を持っていってからね。
本当にあんた死んでから楽になったのち、言よんなさるとをかすかに横で聞いて、どう言う事じゃろうかと思うたと言うて、波多野さんがお届けをしておられました。もう本当にもうあの、お父さんなあげな状態、店はこんな状態、銀行からやあやあいうてくる、もうとてもとても、本当もうあんたが体が持てまいごとある事をようお母さん知っとたが、もうあんたあの世に行って、もうその事も無くて、もうそれが楽になったのという意味じゃろうかと私も思うたんです。という程に苦しい所であった。
所がおかげで沢山まとまった、あの生命保険にかたっておったから、おかげであれが借金払いしてくれます、と言うて今日お礼言うておられました。それで是からは一つ、あの両方の松葉杖を付かずに、昨日から親先生もう座敷で杖一本で歩く稽古をしよります、ほんとだいぶ調子がよかごとあるというて今日はお礼言うております。もう信心どんがなかならば、ほんとに死んだほうがましと言う様なです。
あの状態の中にあってもですそう言う風に、そういう人間の一番悲しい場面に当たらして頂いても、矢張りそのあくる日からやっぱり、朝参りして来ておる。続けてそして、いちいち親先生にご神意を伺うてから、事を裁かして頂こうという、ほんとに信心を頂いておる値打ちをそこに感じるではないですか。これ程拝みよるとに、これ程参りよるとに、こう言う事になってと言う様な事を思っていない。
それが信心の値打ちなんです。だから折角そういう値打ちのある信心をお互い頂いておるのですから、そん値打ちのある信心を、値打ち有らしめなければ、その値打ちを現わして行く所の、おかげを頂かせて下さいというのが、最近言われる所の五つの願いなんです。その為には体の丈夫を頂かして下さい、その為には、家庭の和のおかげを頂かして下さい、その為には、いよいよ子孫繁盛、家繁盛のおかげを頂かして下さい、その為にはいよいよ、真実の御用をさして下さい。
その為には神様の大願、悲願である神願成就のおかげの、お役にでも立たせて下さいという、願いになって来る訳です。そういう願いが立てられるのですから、その間のこの修行というか、信心の進め方というものがです、去年よりも今年と、進んでいかなければいけないでしょう。自分がいくら頑張ったところで、いくら自分が精進したところで、信心の方へ精進をして、お徳を受けさせて頂いて、受けるところのおかげでなからなければ、それは行きつまりがくる。
限りない行き詰まりのおかげを頂かせて頂く為に、お繰り合わせを頂かにゃいけん。いわゆる、今朝の御理解ではないですけれども、形のお繰り合わせよりも、先ず私の心の上に御繰り合わせを下さい。これが天に任せて地にすがるというのは、自分の心にすがる事だと、自分の心の上におかげを頂かせて下さいと言う所にいよいよ信心の深みが出て来る事を、大地にすがるという信心だと、天に任せての頂くおかげが、言うなら、広く浅くならばです、地にすがると言う事の信心によって。
いよいよ深く掘り下げられて行く所の信心、そこに広大無辺のおかげ、いわゆる神恩の無量の味わいというものが出て来る。どうしてこう言う事に成るだろうか、等と言う様な事は私共で分かる筈はない。そこに無辺の、限りない神様のお働きというものは、私共の人知人力で分かる、分かろうとして分かれる事では無いけれどもです、おかげと言う事だけは間違いない。おかげの為の是だと言う事は間違いない。
ですからそこに二年三年、信心を続けて行きよる内に、なるほどこういう御神慮があったんだと、御神慮の程が分かって来る様になる。いよいよ信心の深さ、信心の広さ、それを広大無辺のおかげというのである。無辺と言う事はもう限りがないと言う事。そういうおかげを頂く為に、私共が先ずは一つ、白紙になるところまでの信心、お取次を頂いたら、心が安らぐ、心に安心が生まれるというところまでの、信心は先ずひとつ早く頂きたいもんだと思う。そこからいうなら赤になりそれから紫になって。
いわゆる安心のおおみかげ、いわゆる春風柳風に柳ですかね。今日私そこの田中さんが、お礼に出て来た時に丁度その事を書いとったからそれは春の春の光でしたかね、春の春光春光春の光、柳に風と春の光柳の風と書いておった、だから田中さんこういう一つおかげを頂かなからにゃいけないよ、というて所がお話を聞かせて貰うと、先夜お夢の中に金光様がおい出られたち。はあま有り難い、有り難いち言よるばってんから、出しよる物は日頃家で食べとると、夕べ作とったライスカレーどん出しよった。
と言う様な事。ほらもう大水はそこまで入って来とるち、とにかく大水と言う事は、おかげの頂き過ぎと云う事。ほらもう、金光様がおい出て頂いとるとに、そりゃそりゃどうしようか、じゃなくてからもう有り難いと思いながら、夕べん残りのライスカレーば出しよる、と言う様な、お互い所じゃなかろうか。有難い有難いと言いながら、ほんとに神様中心主義の信心にならなければです、広大無辺の御神慮も分からないし、広大無辺のおかげにも触れて行く事は出来んと思うのですよね。
どうぞ。